今回は、神田房枝『知覚力を磨く―絵画を観察するように世界を見る技法』(ダイヤモンド社、2020年)を取り上げます。美術史研究者の神田は、「脳科学」に依拠しながら、「絵画を見るように世界を見る」という方法を紹介した上で、それをビジネスで活用することを提案しています。今回の記事では、その方法を説明した上で、私の問題関心に沿って、「創造性」に関する論点を整理したいと思います。
まず、「知覚」とは、「思考」する前に、情報を受容して、解釈することです。「思考」がコントロールできるものであるのに対して、「知覚」はコントロールすることができません。というのも、私たちの解釈には、それぞれの経験や知識に基づいた「バイアス」が影響を及ぼしているからです。そのため、「ありのままに受け入れる」にはどうするべきかが課題になるのです。
神田の論理とは、簡潔に言えば、「観察を通じて知覚力を磨く」というものです。その要諦は、コントロール可能な「観察」という行為によって、半自動的な「知覚」を刺激して、新たな解釈や意味づけを生み出すということです。つまり、神田が的確に指摘しているように、「知覚」は、単なる「記号やシンボル」を超えるものなのです。理屈としては、特定の目的を持たずに、眼で受け取った情報を「脳で観る」(マインド・アイ)ことによって、バイアスから自由になって、「純粋に見る」ことができるのです。
具体的に言えば、次のような眼の動きによって脳を刺激することが求められます。すなわち、全体図を把握した上で、部分を全体の中で位置づけたり、関連づけるといった方法です。また、視覚によって、嗅覚や聴覚までもが刺激されることがあります。このように絵画を観ることができれば、「眼のつけどころ」が分かるので、それまで「見えていなかったもの」が見えてくるというのです。
たしかに、神田が指摘するように、人文系の「リベラルアーツ」は、深い人間理解を可能にするため、正解のない課題に最善の答えを導くには不可欠です。たとえば、昔ダ・ヴィンチがそうであったように、最近ではジョブズも、テクノロジーとリベラルアーツを融合させて、革新的発明を成し遂げました。こうした例からも、リベラルアーツの本質が教養を広げることにあるのではなく、知覚を磨くことにある点は、疑問の余地がありません。
それでも、神田の論理が「創造」の一助になりうるかどうかは、次の点を見極めることにかかっています。それは、「観察」で知覚を限定してしまうことなく、また、先におのれの内面を見つめることなく、「あるがままに世界を見る」ことなど、果たして可能なのだろうかということです。というのも、神田自身が指摘するように、「外部」の「観察」と「内部」の「知覚」は、「コントロール」が可能か否かという点において、両立しがたい性質を有しているからです。
具体的に言えば、どのようなビジネスをするのか、どの分野を研究するのかといった問題が、「創造」の起点になります。その際に、社会のニーズや競合他社のことを考慮するよりも、ジョブズが指摘しているように、「自分が本当にやりたいこと」とは何かを見出す方がきわめて重要です。そして、「観察」対象に魅力を感ずるという経験は、自分の内面(経験・感情)を見つめるという作業なくしては、起こり得ないのです。
だとすれば、私の問いかけは、先に「外部」を美術研究者のように「観察」するのではなく、おのれの「内面」を直視するべきではないのかということなのです。ただ、もしかすると、この違いは、芸術的「創造」を生み出す過程が、技術的「イノベーション」の過程とは異なることを暗示しているのかもしれません。