今回は、五木寛之『ただ生きていく、それだけで素晴らしい』(PHP研究所、2016年)を取り上げます。五木のメッセージとは、タイトルの通り、生きているということ自体がすばらしいのであって、これができなければ、生きる意味や目的を探すということもできなくなる、ということです。
五木がこのようなメッセージを発した背景には、今日私たちが生きる目的や意味にとらわれすぎているために、自殺者が増加しているのではないかという考えがあるようです。意味や目的にとらわれすぎると、自分の存在には意味や目的がないと追い込んでしまいかねません。あまりにも命が軽んじられているという危惧が、先の大戦を経験した五木にはあるのです。
注意すべきは、五木は「生きる意味なんてなくてもよい」とは言っていますが、悩むことが悪いという捉え方をしていないことです。仏教の開祖であるブッダがそうであったように、悩むことは、何かを生み出す一歩手前にいることなのだと、ポジティブに捉えるべきなのです。つまり、悩みを「悪」だと決めつけて、それを「治す」という発想とは、一線を画しているのです。
このように絶望や暗闇から希望や光明を見出すという考えは、何が善で何が悪なのかということを簡単に決めつけるべきではないという考えにつながっています。すでに考察したように、この五木の考え方は、親鸞の思想に基づいています。それでは、絶望から光明を見出すにはどうすればよいのでしょうか。
五木によれば、おのれが「弱い」「孤独」な存在であること、「悪」をなしうる存在であることを「自覚」しなければなりません。五木には、敗戦後に朝鮮半島から引き揚げて来たという経験があります。したがって、何としても生きるのだと「覚悟」するために、この「自覚」を読者にも求めるという点において、君たちはただ無自覚に生きてもよいと、五木は言っているわけではないのです。
親鸞の思想との関連で重要なことは、どうすればこの「自覚」が生まれるのかについての説明です。五木は、この「自力」が生まれるときには、必ず「他力」が働いていると述べています。たとえば、海原に浮かぶ、エンジンのないヨットで、いつか「風」が吹いてくれるときに備えて、帆の準備をしておくというように。つまり、「風」という「他力」を信ずるからこそ、私たちは「覚悟」を決めることができるのです。
五木のメッセージは、具体的に言えば、何か目に見えない「大きな力」を感じつつ、おのれの内面に目を向けてみてはどうだろうかということなのです。