頭木弘樹『絶望名言』

 今回は、頭木弘樹・NHK〈ラジオ深夜便〉制作班『NHKラジオ深夜便 絶望名言』(飛鳥新社、2018年)を取り上げます。同書は、NHKラジオの深夜便で好評を博した番組内容が、書籍になったものです。有名な作家の「絶望名言」を紹介して、それについて、文学紹介者とアナウンサーが対話するという形式になっています。ちなみに、「絶望名言」とは、「絶望した時の気持ちをぴたりと言い表した言葉」です。

 2人は対話の中で、各々が病気でたいへんな苦労をしたときの経験を語っています。というのも、そのような経験がなければ、作家が日記や作品の中で記した名言によって、読者が心動かされることはないからです。この記事では、作家たちの経験や名言を踏まえつつも、それらについて詳細に説明するのではなく、「文学」とは何かという本質的問題について考えます。

 私たちは文学作品を読むことによって、登場人物や作者に共感して、慰め、救われることがあります。そのため、番組の狙いは、自殺者が増加している中で、作家の「絶望名言」から「生きるヒント」を探すということにあります。そのような番組(同書)のメッセージは、自ら命を絶った作家がいるにせよ、死に直面するほどの「絶望」を経験した者こそ、人生の幸福や生命の豊かさを理解することができるのだ、ということになります。

 つまり、できなくなることで分かるようになることがあるというように、発想を逆転させるのです。頭木が指摘するように、たとえば健康管理など、自分を「コントロール」することが大事だという考えがあるのは当然で、それができる人はすばらしい。しかし、人間とは、そのように自己管理しようとしてもできない「弱い」生き物だと嘆くような人でなければ、「文学」に目覚めることはありません。

 さて、ここからは私の見解になりますが、ラジオ番組の対話内容を活字化したときに、「絶望名言」は、きわめて重要な問いを私たちに投げかけています。それは、前述したように、「文学」に目覚めたとき、果たして“受け手”のままでよいのかという問いです。

 具体的に言えば、頭木の結論とは、「生きているだけでよいのだ」というものです。それは、言い換えると、「生きる意味」などなくてもよいという考えです。もちろん、頭木が言うように、あわてずに、あせらずに、病気と付き合うことが重要なのでしょう。しかし、見逃してはならないのは、「絶望」がないに越したことはないというのが、頭木の本音である点です。つまり、「絶望」を経験することが「幸福」なのだと、頭木は言い切ることができていないのです。

 管見の限り、同書で取り上げられている作家は、そうではありません。彼らは、生きているだけでは満たされず、「生きる意味」を見出そうとしていました。これが、文学作品の “作り手”の姿勢であって、その姿勢が、私たちの心を動かすのです。だとすれば、“受け手”の立場にとどまることができないような感情を内面に秘めた者は、次のようにおのれに問わねばなりません。すなわち、「絶望」から「創造」を生み出すためには、何が必要なのだろうか、と。

 そのヒントは、作家の「絶望名言」にあります。彼らの名言からひしひしと伝わってくるのは、彼らがおのれの「弱さ」を自覚していたということ、また、「絶望」の深さを知っていたということです。そうした「内省」が、「病的な神経」とともに働いていたために、彼らを苦しめていたことは事実ですが、同時に、ただ生きているだけでよいと考えている者たちが決して得ることのできない、「創造」という「幸福」を与えたこともまた事実なのです。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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