今回は、猪瀬直樹『ピカレスク』(小学館、2002年)を取り上げます。猪瀬は、太宰治が山崎富栄とともに入水自殺した理由や経緯について、多くの資料に基づいて、興味深い仮説を提示しました。今回は、その仮説と根拠を説明した後で、私(中西)自身の経験から肝心だと思われる点を指摘します。
まず、猪瀬は、「生きようとする」太宰を描きました。太宰は、実際に自殺する前に、4度もの自殺未遂事件を起こしているのですが、猪瀬によれば、彼は本当に死ぬ気はありませんでした。太宰が死ぬような素振りを見せた狙いは、生家からの財産分与や、内縁の妻との離別など、実生活に関わるものでした。
他方で、太宰は、戦後の道徳打破の捨石になるためには、キリストになる覚悟を持っていました。つまり、戦後に世間が、戦時中とは打って変わって、「家庭の幸福」を至上の価値とするようになっていたことを批判するために、自分には死ぬ準備ができているという戦術を持ち出していたのです。ただ、これはあくまで“ポーズ”であって、太宰は、玉川上水の土手にいるときでさえ、実際には引き返す準備があったのです。
それでは、そのような太宰が、どうして実際に自殺を遂げることになったのでしょうか。山崎富栄が実務能力に長けていたこともあって、太宰は、彼女の部屋を仕事場にしていたようです。富栄は、生家との関係を犠牲にしても太宰に尽くしていたため、ともに死んでもらう覚悟で、太宰の「死」の言葉を受け取りました。実務能力に長けた富栄は、太宰が窒息死するのを見届けることを怠りませんでした。
ところで、このように、山崎富栄が太宰の死の決定打だとしても、何が太宰を危険な“ポーズ”をとらざるをえないところにまで追い込んだのでしょうか。猪瀬は、この戦後最大の謎の一つに取り組むにあたって、太宰がその遺書において、「井伏さんは悪人です」、と書き遺していた点に着目しています。それでは、どうして太宰は死ぬ間際に、自身の師で、よく面倒をみてくれた井伏鱒二を批判したのでしょうか。
猪瀬によれば、太宰は、井伏の全集の編集過程で、次のことを発見しました。それは、自分が入院していた「脳病院」での出来事を、おもしろおかしく書かれた小説があったという事実です。「脳病院」は、現在の精神病院であって、太宰はそこに入れられたことを、人生における汚点だと考えていたため、彼の怒りはすさまじいものだったと想像できます。
太宰は、この点に気付いていたからこそ、井伏の全集の「解説」において、井伏の手法を痛烈に皮肉ったのです。具体的に言えば、井伏の「青ケ島大概記」が“盗作”である点について太宰は指摘したようですが、猪瀬によれば、井伏の代表作とも言える『黒い雨』も、広島の被爆者の日記を用いた“盗作”と判断されかねないものでした。太宰は、このような、いい加減な手法を用いる井伏を「天才」だと評したのです。
要するに、太宰の真意は、遺書の批判は感謝の裏返しだというような“逆説”ではなかったというのが、猪瀬の指摘なのです。太宰にしてみれば、井伏は、「旅行上手」で、「家庭の幸福」を望む「世間」の代表だったのです。このような戦後の価値観を有する「人間」が、自分を「狂人」とみなして「脳病院」に入れたのだと批判したかったというのが、太宰の本心なのです。