再考・『君たちはどう生きるか』(3)

丸山真男の「内省」

 前回は、丸山真男の「解説」を直接引用しながら、その「構図」を抽出しました。モラルに関わる個人的な経験を社会科学的認識にまで持ってゆくという「構図」から引き出されるのは、「主体性」という課題でした。今回は、この前回の内容を踏まえつつ、「構図」に内在する論理について、より詳しく検討します。

 具体的に問いの形にするならば、丸山が「主体性」という課題を提起したのはなぜかということです。後に詳しく論じますが、この問いは、筆者の「仮説」の検証と関わっています。すでに論じたように、『君たちはどう生きるか』のハイライトは、コペル君が「絶望」から「真実」をつかんでゆく場面です。それでは、彼が「絶望」から「真実」を“主体的に”つかむためには、何が必要だったのでしょうか。

 結論的に言えば、筆者なりに解釈すると、次のようになります。すなわち、「真実」を手に入れるためには、「絶望」ばかりでなく、「自己決定」の力をも「内省」しなければならないということです。

 まず、「内省」の重要性を確認するために、丸山の議論展開を検討してみましょう。丸山の議論展開とは、同書のハイライトを踏まえて、丸山自身の経験を述べるというものです(以下、丸山真男「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想――吉野さんの霊にささげる」吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波書店、1982年、319-321頁)。

 「ここに出て来るいくつかのエピソードを読んで私は文字通り身につまされる思いをしたのを記憶しております。それは当然、コペル君やその級友たちと、それほど年もちがわない私の中学時代の回想へと私をいざない、そのころの私の経験と重ね合わせずにはおきませんでした」。

 「たとえば北見君にたいする上級生のリンチ事件に対して、コペル君が、浦川君や水谷君らとかねてそういう事態にいたったら一緒になぐられる、と指切りまでして約束したにもかかわらず、実際にその事件の場のおそろしい光景に身がすくんで、自分ひとり抵抗しないで傍観し、その後悔の念でとうとう寝込んでしまうくだりがあります」。

 ここでは、丸山の中学時代の経験には触れませんが、丸山は次のように告白しています。「私にはまさにありました。私の場合は、コペル君よりは一層性質のわるい卑劣なものでした。〔中略〕中学生時代の自分自身について後々までむかつきたくなるほどの嫌悪感をもよおす思い出があるからです」〔傍点――まさに、ルビ――たち(性質)〕。

精神の弁証法

 さて、丸山は、同書のハイライトと自分の経験を重ね合わせた後で、筆者の「仮説」と合致する議論を展開します(以下、同上、321-322頁)。

 「『君たちは……』の叙述は、過去の自分の魂の傷口をあらためてなまなましく開いて見せるだけでなく、そうした心の傷つき自体が人間の尊厳の楯の反面をなしている、という、いってみれば精神の弁証法を説くことによって、何とも頼りなく弱々しい自我にも限りない慰めと励ましを与えてくれます。〔中略〕自分の弱さが過ちを犯させたことを正面から見つめ、その苦しさに耐える思いの中から、新たな自信を汲み出して行く生き方です」。

 まとめると、丸山が「精神の弁証法」として説いているのは、「心の傷つき自体が人間の尊厳の楯の反面をなしている」という点です。また、丸山によれば、「新たな自信を汲み出して行く」ためには、「自分の弱さが過ちを犯させたことを正面から見つめ、その苦しさに耐える思い」が不可欠なのです。

 したがって、「精神の弁証法」は、「絶望が真実の発見に資する」という筆者の「仮説」と合致していると言えます。

 ここで再確認すべき点は、吉野源三郎が自身の経験から同書のメッセージを固めていたという事実です。コペル君だけでなく吉野自身も、「絶望」から「真実」をつかんだわけですが、丸山の鋭い指摘によれば、「精神の弁証法」を確実にするには、自分の弱さを「内省」する必要があるのです。

 だからこそ、前述したように丸山は、同書のハイライトを踏まえた上で、自身の経験を重ね合わせるという作業を行っているのです。丸山は、その他の経験も挙げていますが、いずれにしても、次の指摘が重要です。すなわち、以上の点において、「中学一年生のコペル君と、大学の助手の私との間には、明らかに共鳴現象が働いたのです」(同上、323頁)。

「自己決定」の力を見つめる

 それでは、人間が「絶望」の淵から「真実」の発見へと進むためには、自分の「弱さ」を見つめることだけで十分なのでしょうか。否、丸山は、「自己決定」の力を自覚する重要性についても指摘しています(以下、同上、324頁)。

 「人間が『自分の行動を自分で決定する力を持つ』〔中略〕ことの両面性――だから誤りを犯すし、だから誤りから立直ることができる、という両面性の自覚が『人間分子』の運動を他の物質分子の運動と区別させるポイントだ、と駄目を押すことで、『おじさん』はモラルの問題をふたたびコペル君の発見した『網目の法則』の――つまり社会科学的認識の問題につれもどす、というのが、この作品の立体的な構成となっているわけです」。

 筆者の「仮説」に従って、丸山の「解説」に説明を加えてみます。まず、前述した「精神の弁証法」と同様に、人間は「誤りを犯す」けれども「誤りから立直ることができる」という「両面性」があるという指摘がなされています。問題は、この「精神の弁証法」を確実にするための方法です。

 丸山の指摘を読み解くと、次のようになります。すなわち、「自分の行動を自分で決定する力を持つ」からこそ「両面性」が生まれるということを、我々は「自覚」するべきなのです。言い換えると、人間の「自己決定権」の意義を見つめるべきだということです。

 冒頭で確認したように、丸山の「解説」における「構図」の核心は、「主体性」にありました。そして、この「主体性」という課題を、「自分の行動を自分で決定する力を持つ」こととして、丸山は改めて強調しているのです。

 丸山の指摘を踏まえて、同書の意義を筆者なりに解釈すると、次のようになります。すなわち、我々人間は、「自己決定」の力を「内省」することでこそ、「真実」に近づくことができるのだ、と。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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