再考・『君たちはどう生きるか』(2)

丸山真男の考察における「構図」

 最初に、前回の内容をおさらいします。前回の記事では、コペル君が「絶望」から「真実」をつかんだことを証明するべく、小説の著者である吉野源三郎の経歴を明らかにしました。実は、吉野自身が、「絶望」から「真実」をつかんでいたというわけです。

 吉野は、自分の経験に基づいて、小説の中に伝えたいメッセージを込めました。具体的に言えば、吉野は、治安維持法違反で検挙された経験に基づいて、「友情」という価値を重視するべきだというメッセージを込めたのでした。

 ところで、『君たちはどう生きるか』の岩波文庫版には、丸山真男の「解説」が収められています。今回は、この丸山の「解説」を検討します。その目的は、丸山の考察の「構図」を抽出して、同書のメッセージを批判的に検討する手がかりとすることにあります。

 結論から言えば、丸山の考察は、次のような「構図」になっています。すなわち、モラルに関わる個人的な経験を、社会科学的認識にまで持ってゆく点に、同書の意義があるというものです(丸山真男「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想――吉野さんの霊にささげる」吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波書店、1982年、310-311頁)。

 「吉野さんの思想と人格が凝縮されている、この一九三〇年代末の書物に展開されているのは、人生いかに生くべきか、という倫理だけでなくて、社会科学的認識とは何かという問題であり、むしろそうした社会認識の問題ときりはなせないかたちで、人間のモラルが問われている点に、そのユニークさがあるように思われます。そうして、大学を卒業したての私に息を呑む思いをさせたのは、右のようなきわめて高度な問題提起が、中学一年生のコペル君にあくまでも即して、コペル君の自発的な思考と個人的な経験をもとにしながら展開されてゆくその筆致の見事さでした」〔傍点――べきか、認識〕。

 具体的な例として、丸山は、コペル君がおじさんへの手紙の中で報告している、「人間分子の関係、網目の法則」を挙げています。その法則とは、次のようなものです(同上、311頁)。

 コペル君が「粉ミルクで育ったことから考えを押しすすめて、粉ミルクがオーストラリアでつくられて日本にくるまで、さらに日本に来てコペル君の口にはいるまで、どれだけ色々なちがった仕事をする人がその間に介在しているかを順々に考えてゆき、〔中略〕そのうしろに数えきれない未知の人のとりむすぶ関係のなかでつながっていることに気づきます」。

 要するに、我々の必需品は、生産者から仲介業者を通して、我々消費者の手元に届けられるのです。このように、コペル君が発見した「人間分子の法則」を「出発点として、商品生産関係の仕組みへとコペル君を導いてゆく」のです。こうした「生産関係」の説明にまで持ってゆく点を指摘しながら、丸山は、「これはまさしく『資本論入門』ではないか――」と高く評価しています(以上、同上、312-313頁)。

「主体性」という課題

 以下では、丸山の「解説」の要点を読み解きながら、社会科学的認識に、個人の経験を絡めることの“意義”について検討します。基本的に、社会科学的認識とは、対象を客観的に捉えるということです。しかし、丸山によれば、身近な「事物の観察とその経験から出発し、〔中略〕複雑な社会関係とその法則」にまで持ってゆくという吉野の展開の“意図”は、“主体を関わらせる”という点にあります(同上、313頁)。

 具体的に、以上の点を説明していきましょう。丸山の指摘によれば、吉野の小説の特徴は、「社会科学的な認識が、主体・客体関係の視座の転換と結びつけられている」という点にあります(以下、同上、315頁)。

 「潮の干満のように昼間、東京の周辺から中心に寄せて、夜になると一時に引上げてゆく近代都市の『人口』なるもののほとんど神秘的なまでに規則ただしい波動。自動車の流れを右左とかわしながら、懸命に小さな自転車のペダルをふむ少年と、その少年の動きを屋上から目で追っているコペル君は、見られるものと見るものとの関係にあり、見られるものはそのことを意識しないが、見るものには分っています。にもかかわらず眼下の少年にたいしては、一方的に見る立場にあるコペル君自身も、眼前に林立するビルの無数の窓のなかから見られていて、そのことが自分には分らないのかもしれないことに気づくという視座の転換の問題。つまりここにすでに都市論という社会科学的な、そうしてすぐれて今日的な対象の分析と、主体・客体関係という認識論的な意味づけとがわかちがたく結び合わされて読者に提示されているわけです」〔傍点――もの(見られるものと見るもの)、対象、認識〕。

 さらに、「視座の転換」に関して言えば、以下のような、「切実な『ものの見方』の問題」として提起されているのが、「天動説から地動説への転換」です。すなわち、この転換は、「自分を中心とした世界像から、世界のなかでの自分の位置づけという考え方への転換のシンボル」なのです(以下、同上、316-317頁)。

 「もしこの転換が、たんに対象認識の正確さの増大とか、客観性の獲得とかというだけの意味しか持たないならば、その過程には自分は――つまり主体は何ら関与していないことになります。〔中略〕いや、吉野さんのアプローチはそうではありません。地動説への転換は、もうすんでしまって当り前になった事実ではなくて、私達ひとりひとりが、不断にこれから努力して行かねばならないきわめて困難な課題なのです」〔傍点――対象、自分は、課題〕。

 「つまり、世界の『客観的』認識というのは、どこまで行っても私達の『主体』の側のあり方の問題であり、主体の利害、主体の責任とわかちがたく結びあわされている、ということ――その意味でまさしく私達が『どう生きるか』が問われているのだ、ということを、著者はコペルニクスの『学説』に託して説こうとしたわけです」。

 それでは、次回は、今回の考察で明らかになった、「主体性」という本質的課題について、より詳しく検討しましょう。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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