なぜ取り上げるのか
表題の通り、記念すべき最初のシリーズでは、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』を取り上げます。1937(昭和12)年に出版された同書は、2017年に漫画化されてベストセラーとなっており、現在同書の再評価がなされています。この点も踏まえつつ、前回の記事で表明した考えに照らして、なぜ同書を取り上げるのかについて説明します。
本ブログの「仮説」は、「絶望が真実の発見に資する」というものです。結論から言えば、同書を取り上げる理由は、この「仮説」を証明してくれるからです。実際、後述するように、主人公は、「絶望」を契機として、「本当の自分」に出会うことができました。主人公の「真実」とは、管見の限り、「友情」「友」という価値観を最も重視するというのが自分なのだ、というものです。
別稿にて詳しく論じますが、岩波文庫版に収められている、政治学者・丸山真男の解説は、次の点のすばらしさを称賛しています。すなわち、吉野の小説は、モラルに関わる個人的な経験にとどまらず、それを社会科学的認識にまで高めているのです(丸山真男「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想――吉野さんの霊にささげる」吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波書店、1982年)。
丸山の指摘を踏まえて、今回のシリーズの課題を明確にします。吉野は、雑誌『世界』の初代編集長を務めました。吉野は『世界』の編集長として、講和問題や安保改定などに、「戦後平和主義」の立場から取り組みました。とすれば、この国際政治学的認識が、「人間を信じる」という「ヒューマニズム」と、どのように関わっているのかという点が、問題の焦点になると言えます。
このシリーズの目的は、『君たちはどう生きるか』を中心として、吉野の世界観を批判的に検討することです。この目的を踏まえて、今回の記事では、次回検討する丸山の解説も見据えつつ、吉野が小説で最も伝えたかったことと、そのメッセージを伝えようと吉野が考えた理由について説明します。
なぜ今ブームなのか
まず、同書を簡単に紹介しておきましょう。主人公のコペル君は、15歳の中学生ですが、すでに父親を亡くしています。同書の中で描かれているのは、コペル君が、さまざまな出来事や問題に直面しながらも、人間的に成長してゆく過程です。
具体的に言えば、いじめや貧困、そして人間関係といった問題について、コペル君は悩み、考えます。その際に彼は、叔父さんとの対話を通じて、考えを深めていきます。こうした設定を踏まえながら、池上彰は、同書が「ヒットしている」背景について、次のように説明しています(池上彰・吉野源太郎「父・吉野源三郎の教え」『文藝春秋』2018年3月、245-246頁)。
「子ども自らが読みたくて買っているというよりも、両親やおじいさん、おばあさんが、子どもたちに読ませたいと買い与えているためだと思います。いまの父親や母親は自分の子どもにも『こうしなさい』『こう生きるべきだ』なんて押し付けがましいことを言えません。そこに登場したのがこの本です」。
「おじさんには自由で社会にからめとられていない雰囲気があり、コペル君へのスタンスも決して押しつけがましくない。タイトルが象徴的で「こう生きるべきだ」と説くのではなく、「どう生きるか」と問いかけている。これもいまの日本で受け入れられている理由ではないでしょうか」。
ただ、より本質的には、再ブームが起こっている理由として、同書のテーマが普遍的であるという点が挙げられます。この点について、丸山は、次のように称賛しています(丸山、前掲論文、329頁)。
「『君たちはどう生きるか』のすばらしさは、深くその時代を語りながら、いやむしろその時代を語ることを通じて、その時代をこえたテーマを、認識の問題としても、モラル論としても提起しているところにあるのではないでしょうか。そうして、時代を反映しながら時代をこえた意味をもつところに、総じて「古典」と呼ばれるものの共通した性格があるとするならば、この作品を少年用図書の「古典」と呼んでもすこしも言いすぎではないように思われます」〔傍点――その(最初の2つ)〕。
とすれば、同書に再び注目が集まっている理由は、未解決の諸問題への取り組みが現在「喫緊」となっている状況において、「生き方に苦しむ若い世代の共感を呼んでいるという事情がある」からなのかもしれません(加藤節「解説2 思想家吉野源三郎」吉野源三郎『人間を信じる』岩波書店、2011年、332頁)。
ハイライトとその背景
次に、同書のハイライトについて説明します。若干のネタバレを含みますが、書評ブログでは致し方ない点になります。ぜひ、この記事を読まれてからでも結構ですので、一度ご自身で小説の内容を、ご確認ください。
同書のハイライトは、コペル君が友達を裏切ってしまう場面です。実際、吉野源三郎の息子は、「やはりハイライトはいじめのシーンじゃないか」と考えています。また、池上彰も、この意見に同意して、「上級生が三人の友達に制裁を加えているのに、コペル君は助けに行かず裏切ってしまうシーン」を重視しています(池上・吉野、前掲論文、243頁)。
要するに、同書が最終的に強調している価値観とは、「友情」なのです。すなわち、かけがえのない存在である友達を信ずるべきだということです。
それでは、なぜ吉野は、以上のシーンをハイライトにしたのでしょうか。その背景には、吉野自身が1931年に治安維持法違反で検挙、投獄されたという経験があるようです。この点について、佐藤卓己は、次のように書いています(佐藤卓己「『君たちはどう生きるか』著者の実像――戦後平和主義の戦略家・吉野源三郎」『中央公論』2018年5月、161頁)。
「小説ではコペル君が上級生のイジメを目にして仲間を見捨てた罪悪感が主題とされているが、これも吉野が拘置所で『不覚にも同志を裏切るようなことをもらすのを恐れて自殺を計った』という実体験にもとづいている」。
この事実は、吉野の息子によって確認されています(池上・吉野、前掲論文、251頁)。
「あまりに苛烈な取調べが続き、『仲間を売ってしまうかもしれない。その前に死のう』と獄中で自殺を試みたそうです。〔中略〕軍事法廷では、『私を信頼した人々を警察や軍に売れというのですか。裁判長も軍人でしょう。仲間のことを裏切る人間を信用できるのですか?』と必死の思いで問い直し、これが裁判官の軍人を動かして、一年半の獄中生活の後、奇跡的に執行猶予がついて出所しました」。
このように、吉野の経歴を知ることは、同書で吉野が伝えたかったメッセージを理解することに役立ちます。
さて、今後の展開についてですが、前述した丸山の解説を踏まえた上で、吉野の世界観を批判的に検討します。そして、以上の作業を通じて、筆者自身の「真実」を明らかにします。