ゴッホの手紙(13)

自然と交渉する

 前回は、小林秀雄のゴッホ論の中核が「無私」(意識)にあることを確認した上で、ゴッホが「狂気」を「あるがままに受け入れる」ように努めていたことを証明しました。その論理とは、先に「自分の内」を視て、その次に「自分の外」を視るというものです。実は、この精神疾患に対する態度は、絵を描く時の態度と合致していたのです。

 今回からは、ゴッホの絵画の技術論とその変遷を検討していきますが、今回の記事の要点は、次の通りです。ボリナージュの炭坑にいた時に、ゴッホは、「自分の外」にある「自然」と向き合っていました。その時に培った「無私」の精神に基づいて、ゴッホは、印象主義の本質が「色彩」(「自分の内」)にあることを見抜きました。

 まず、ゴッホがボリナージュの炭坑で培った「写生の極意」について、小林は以下のように論じています。

 「自然とは、貧乏人の生活に、侵入して来る容赦のない力なのであり、絵筆はこれを緩和するわけにはいかない」(小林秀雄『小林秀雄全作品22 近代絵画』新潮社、2004年、96頁)。ゴッホは、「何んの因果か絵筆を握らされた貧乏人に過ぎなかった。特徴は其処にある」(小林秀雄『小林秀雄全作品20 ゴッホの手紙』新潮社、2004年、52頁)。

 「画家は、一種の観念や感覚を以って、自然に近附くと自負してはなるまい。人が自然と交渉するのは、そういうものを通じてではない。生活や労働を通じてである。『デッサンは、人間の言うに言われぬ調和的な形であるとともに、それは、雪の中で、人参を抜いていなければならぬ』と彼は言う」(小林、前掲『小林秀雄全作品22』、96頁)。

 「自然が人間に連結するのは、感覚や観念によってではない、生活を通してだ、彼の言葉で言えば『手仕事』によってである」(小林、前掲『小林秀雄全作品20』、52頁)。

 「彼は、ボリナージュの炭坑で、理想という自己欺瞞者の汚らわしい口実を、きれいさっぱり放棄して以来、経験からのみ学ぶ徹底した現実家が成長したのであるが、経験が、思想を狭くするという様な事は決して彼には起らなかった。彼の狭い経験は、彼の精神の徹底的な分析や推論の材料であり、その故に、其処にはいつも或る普遍的な意味が現れるのであった。農夫という一つの端緒を摑む。それから一と筋に果てまで歩かないと彼は止めない、農夫は、人間というものになり、百姓絵は、絵というものに溶け込む地点まで。これが、この画家の極めて貧しい所有物の裡で、いつもはち切れそうになっていた大画家の精神なのである」〔傍点――人間というもの、絵というもの〕(同上、54頁)。

印象主義の本質を見抜く

 「彼が、パリに現れたのは、一八八六年の三月であり、彼は、ここで生れて初めてアンプレッショニスム〔印象主義――中西〕の渦巻く革命的絵画の群れに出会った。農民ばかりを描いて来たこの素朴なオランダの地方画家は、天才だけが持てる無私とでも言っていいような態度で、目も眩むような新運動を、全身で受け容れた。彼には、オランダもパリも問題ではなかった。彼が、洞察したのは、この新運動が、現代の感情と呼んでもいいものの要求するところに、深く根ざしているという事であった。而も、この四分五裂した新絵画の諸動向を、一方向を目指すように集結するには、更にどんな新しい方向を要するかを直覚して了った」(小林秀雄『ゴッホの手紙』新潮社、2020年、230頁)。

 「ただゴッホは彼等〔印象主義者――中西〕の根本にあった視覚上の革新だけを、動かせぬ現代の与件として素直に受入れた。併し、与件を受入れるに際し、彼の裡にあってこれに応じたものは、決して単なる原始人の素朴ではなかった。それは彼の無私の精神であった。ボリナージュ炭坑時代以来、鍛錬に鍛錬を重ねて来た宗教的無私であった。彼の生活や思想に於ける無前提性、無態度の態度とも見えるものを、この無私が貫く。批評家の無私ではない。創造の源泉として常に信じられて来た無私である。無私な創造者は、公平な批評家となる事は出来ない。手紙を見れば明瞭である。普遍的なもの究極的なものに憑かれた精神は、そういう精神が照らし出すものしか問題にしていない」(小林、前掲『小林秀雄全作品20』、92頁)。

 要するに、ゴッホはパリで、印象主義の本質が、色彩(感情)にあることを見抜いたのですが、それを可能にしたのは、彼の「無私の精神」だったのです。

デッサンと色彩

 このように考えるならば、「自然」と「感情」、すなわち、デッサン(線)と色彩との対立関係が、焦点になるのです。この点については、次回詳しく検討することにして、今回は最後に、小林の考察を紹介しておきましょう。簡潔に言えば、一方で、「感覚や観念」によって「自然」と連結するべきではないと言いながら、他方で、「色彩」(内的なもの)も「何かを語らなければなるまい」と言うのです。

 一方で、小林は、「自然」について、次のように論じています。「《馬鈴薯を食う人々》は「文明化した人達」への説教ではない。彼の手紙に書かれた文字通り、ゴッホという織工の織った織物だ。其処で自然は、ラ・ブリュウイエールの野獣の様に立ち上り、人間の様な顔をしてみせた」〔ルビ――馬鈴薯(ばれいしょ)〕(同上、53頁)。

 実は、後にサン・レミイ療養院に入院してからも、ゴッホは、次のように述べています。「承知して戴かねばならぬのは、身体に罅が這入って病気になってまでも、自然を愛している人はいるのだ、それが画家だ、という事です」〔ルビ――罅(ひび)、這入(はい)〕(同上、138頁)。「自然と向い合っての仕事の感情だけが僕を支えている」(同上、142頁)。

 「この裸の寝台や椅子は、どんな観念のかけらも暗示してはいない〔中略〕それは疑い様のない椅子という実在の力なのであって〔中略〕そして、それは、この画家の無私な視覚が捜し求めた様式そのものの様に見える」。「私〔小林――中西〕は、美しい静物画など眺めるわけにはいかない。ゴッホが私を見るからだ。無から現れ出た様な白木の寝台と白木の椅子、空間を任意に切りとった様な無飾の部屋、ここには人はいない、が、やがて還って来るのはゴッホである事を感ずるからだ」(以上、同上、95-96頁)。

 他方で、小林は、「色彩」について、次のように論じています。「《馬鈴薯を食う人々》で現したかったものは、『一つの真面目な思想』なのだと彼は言う。思想が色を決定するのである。〔中略〕色調は画家の内的なものの命ずる様に構成される」(同上、66-67頁)。

 《馬鈴薯を食う人々》は1885年作であるため、パリで印象主義と出会う前です。そのため、ゴッホが印象主義の本質を見抜くことができたのは、《馬鈴薯を食う人々》の制作段階で、すでに色彩の「本質的な問題」に苦しんでいたからなのかもしれません(同上、67頁)。

 「色彩は色彩によって語られる他はないという厳然たる事実も、残念乍ら、自意識の強い画家を沈黙させるのには足りないのだ。何故なら、色彩も要するに何かを語らなければなるまいから。現に見えている色彩が、仮りにもの言わぬ物性だとしても、見得る色彩は言葉でなければなるまいから。こんなささやかな論理も、取り憑く人間によっては、異様な問題となる。僕はゴッホの手紙に、その異様な姿を見る。そして、それは、僕の裡の言うに言われぬものとなる。僕にはそれで充分である」〔傍点――語らなければなるまいから、言うに言われぬものとなる〕(同上、42-43頁)

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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