ゴッホの手紙(9)

仕事の意義

 筆者(中西)が着目するのは、絵がゴッホに絶望感を与えていたという「逆の因果関係」が、ゴッホの手紙から読み取れるということです。今回は、本来、「狂気」を「創造性」に高めてくれるはずの「意識」が、反対に、「創造性」を「狂気」に転化させていたことを明らかにします。

 たしかに、小林秀雄が認めるように、ゴッホの個性は、おのれの「狂気」を「創造性」にまで高めた点にあります。ゴッホにとって画家本来の論理とは、「自分の内」から「自分の外」に向かうという流れなので、心理学や精神医学の「客観的説明」でゴッホの個性を理解することは不可能です。

 すでに検討したように、ゴッホが「狂気」を「創造性」にまで高めえた理由は、「意識」で「狂気」を見張ったからです。だからこそ、ゴッホは、「仕事に熱中する」ことだけが「治療法」なのだと考えたのです。この考え方に従えば、精神病院は「治療なぞ全くしてくれてはいないのだ」、という結論になります(拙稿「ゴッホの手紙」(6)を参照ください)。

 言い換えると、ゴッホが告白しているように、「意識」の力で仕事をしていないと、正気を保つことができないということなのです。

 「君も解ってくれるだろうが、仕事で気を晴さなければ、全く気が滅入って了う。僕は働かなければならぬ、烈しく働かなければ。仕事の裡に自分を忘れなければ、自分が自分を叩き殺す事になる」(小林秀雄『小林秀雄全作品20 ゴッホの手紙』新潮社、2004年、40頁)。

 「御覧の通り、僕の気分はひどく悪い。諸事具合よく行っていない。すると絵を描かしてくれと医者のところへ出掛けて行く、全く馬鹿だよ。だが、早かれ遅かれ或る程度まででも、僕が恢復するなら、それは仕事のお蔭だという事になるだろう。仕事は意志の力を強めてくれる、心の弱さに捕えられぬ様にしてくれるからだ」(同上、145頁)。

絵が絶望をもたらす

 ところが、筆者(中西)の仮説に従えば、「絶望」は「真実」になりえるが、実は、その「絶望」は「真実」からもたらされるのです。それでは、「創造性」が「狂気」を生み出すという論理について、ゴッホの言葉に耳を傾けてみましょう。

 「未だ、突然どう仕様もなく意気銷沈して了う事がよくある、恐ろしいくらいだ。それに、健康が常態に復し、頭が冷静に働く様になればなるほど、沢山金をかけ、こうして絵を描いていて、原料代も入って来ない、一文も入って来ない、という事が、いよいよ馬鹿げた、全く理窟に合わぬ様に思われて来る。僕ほど不幸な男はないと感ずる。この年になって他の事を始める事も出来ないし、困った事である」(同上、158-159頁)。

 また、小林によれば、手紙の中で、次の「言葉を、ゴッホは引用して恐ろしいほど本当の事だ、と言っている」。すなわち、『芸術への愛が真の愛を失わせているのだ』、と。「真の愛は芸術を嫌厭させるに至るであろう。三十五歳になって妻も子供も望まなくなったとは悲しい事だ、その反対であって然るべきではないか、と言っている」〔ルビ――嫌厭(けんえん)〕(以上、同上、89頁)。

 ゴッホの手紙に戻ろう。「到底実現されぬ理想的実生活への望郷の想いの如きものが、又しても芸術家の生活を見舞うものである。今もそうだが、これから先きも変るまい。君は、時として、身も心も芸術に打込む望みを放棄する。やれやれ、と思う。君は自分が馬車馬だと知っている、尻を叩かれる同じ老いぼれ馬だと自ら承知している。その癖、君はやはり太陽の下で、小川のほとりで、草の原の中で、仲間と自由に野合して暮したいのだ。そこを徹底して見れば、心の病気の原因がわかる。ちっとも不思議はない、と思うよ。人間は物事に反逆も出来ないし、それかと言って物事を諦め切れもしない。だから人間は病気になる。病気はよくなりはしない。確実な療法も先ずない。誰だったか忘れたが、こういう状態を、死と不死との病気にかかっているのだと呼んだ人がいた。それでも、君が曳っぱって歩く馬車は、君の知らない人達の役には必ず立っているのだ。僕等が新しい芸術を、未来の芸術家を信ずる限り、僕等の信念は、僕等を欺くまい」〔ルビ――曳(ひ)〕(同上、89-90頁)。

 「僕等の世俗的大望は、もうすっかり挫折して了った。そうと決まれば、お互に静かに仕事をしよう、〔中略〕僕が心から愛するものを悉く台無しにして了う僕の狂気など、僕は現実として容認しない。僕は贋予言者にはならぬ。病気にしろ死にしろ、僕には恐ろしくはない、本当だよ。併し僕等の天職が野心と両立しないとは有難い事だな。結婚して所帯を持つ時の着物の事と死の可能性とを同時に考えたって、どうなるものでもあるまい」〔ルビ――悉(ことごと)〕(同上、120-121頁)。

精神疾患の原因を問う

 筆者(中西)の胸を打つのは、ゴッホが、自らの苦しみの原因を自問し、かつ認識していたことです。何が自分を苦しませているのか、それは絵を描くという仕事なのだ。それゆえに、ゴッホの手紙を「告白文学」だと評すべきなのではないでしょうか。

 ゴッホは、絵を描き続けながらも、なぜこんなことをしているのかと、批判的に捉えていたのです。絵を描くことは、なすべき創造的なことだと理解したはずなのにもかかわらず、です。絵を描くことが、ゴッホに「救い」や目的を与えていたにもかかわらず、です。

 たしかに、以前の記事で言及したように、おのれの精神疾患の原因を問い、その意味を見出すことは、「自分の内」から出発する(「狂気」を「創造性」にまで高める)上で、不可欠です。改めて確認すると、とくに入院に前後してゴッホは、「意識」の力で「狂気」を見張ることで、絵を描きました。彼は、この「自画像の視点」をさらに掘り下げて、おのれの「狂気」の原因について問い詰めたのです。

 苦しみの原因を見極めていたという事実は、ゴッホが単なる病人ではなかったことを証明しています。また、牧師になれなかったゴッホが「絶望」に直面した際に、“自己の存在理由を根源的に問う”ことができたからこそ、画家という仕事に就くことができたという事実は、疑いようがありません。

 それでも、突き詰めて考えると、“問う”ことはゴッホを苦しめてもいたのです。ゴッホをして遂には自らピストルの引き金を引かせたのは、実は、「意識」の力なのです。なぜならば、「自分の内」から出発しようとするほど、「自分の外」にあって、手には取らえぬもの――「世俗的大望」や「理想的実生活」――が、「自分の内」に忍び込んでくることを意識せざるをえなくなるからです。

 『芸術への愛が真の愛を失わせているのだ』

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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