ゴッホの手紙(5)

「巨きな眼」

 前回は、「恐ろしい様な透視力」がゴッホに宿った原因が、ゴッホがおのれの「狂気」を直視したことにあった点を証明しました。今回は、引き続き「狂気」と「創造性」の関連を証明するべく、ゴッホの手紙と作品について考えていきます。

 改めて確認すべきは、おのれの「狂気」を直視して精神疾患の意味を見出すということが、「客観的(合理的)説明」とは真逆で、“自分の内から出発する”という流れであることです。

 小林秀雄によれば、「ゴッホが彼の全人格を発揮してからの作品には、悉く、一種強迫された動機と言おうか、制作の切羽つまった諸条件の意識と言おうか、そういうものの、明らかな反映が感じられます」(小林秀雄『小林秀雄全作品22 近代絵画』新潮社、2004年、292頁)。「ゴッホという熱狂的な生活者では、生存そのものの動機に強迫されて、画家が駆り出されるとも言えるであろうか」(同上、92頁)。

 そのため、「私の実感から言えば、ゴッホの絵は、絵というよりも精神と感じられます。私が彼の絵を見るのではなく、向うに眼があって、私が見られている様な感じを、私は持っております」(同上、305頁)。

 「僕が一枚の絵を鑑賞していたという事は、余り確かではない。寧ろ、僕は、或る一つの巨きな眼に見据えられ、動けずにいた様に思われる」(小林秀雄『小林秀雄全作品20 ゴッホの手紙』新潮社、2004年、12頁)。「既に僕の心に取付いて了ったらしいもう一つの欲望、あの巨きな眼は一体何なのか、何んとかして確かめてみたいものだという厄介な欲望は、どう片付けていいか解らなかった」(同上)。

 そして、小林によれば、かくの如き感覚を抱かせるゴッホの絵を、彼の手紙を抜きにして理解することなど、到底不可能なのです。

自画像の視点

 それでは、「創造」の意味やその動機――自分の内から出発する――を、ゴッホはどのように追求したのでしょうか。小林によれば、それは、おのれの「狂気」を直視する、すなわち「狂気」を「意識」で見張ることによって、です。

 このことを示すのが、有名なゴッホの自画像です。1888年「12月24日の夕方、フィンセントは激しい興奮状態、つまり『高熱による発作』に襲われ、自分の耳の一部分を切り取り、娼館の女性に贈り物として持っていったのだ」(ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル『フィンセント・ファン・ゴッホの思い出』東京書籍、2020年、166頁)。

 ゴッホは退院後に、鏡に映った「耳に包帯をした」自分を描きました。以下で論ずるように、ゴッホは、狂気も正気も自分なのだということを認識して、この自画像を描いたのです。

 小林は、ゴッホの手紙を踏まえて、自画像の意味と動機について解説しています。「ここに、世にも奇怪な人間がいる。自身でも世間でもこの男をゴッホという名で呼んでいるが、よくよく考えれば、これを何んと呼んだらいいのであろう。それは、自我と呼ぶべきものであるか。この得体の知れぬ存在、普通の意味での理性も意識もその一部をなすに過ぎない、この不思議な実体を、ゴッホは、何も彼も忘れて眺める」(小林、前掲『小林秀雄全作品22』、296頁)。

 「ともかく、そういう場合のゴッホの意識、それも意識という言葉を使ってよいとすればですが、その場合のゴッホの純粋な意識こそ、彼の自画像の本質的な意味を成すものでしょう」(同上)。

 「ゴッホは病気であったが、彼の自分は病気だという意識は病気ではなかった。『一体誰が正気なのか』と彼は手紙の中で質問していますが、本当に烈しく質問しているのは、彼の絵でしょう」(同上、303頁)。

 かくして、小林は、ゴッホがおのれの「狂気」を直視したという点を指摘した上で、次のように述べます。「この追いつめられた人間の、強烈な自己意識が、彼の仕事の動機のうちにあるのです。それこそ彼の耳に繃帯をした自画像の視点そのものなのです」(同上、299頁)。

「自分の心との戦」

 以上のように、ゴッホが、「己を知る」という、「自分の心との戦」に入っていたというのが、小林の指摘です。「狂気という重荷を背負った一人の画家の生きて行かねばならない意味は何処にあるのだろう」(同上、298頁)。

 なお、本シリーズの(3)で説明したように、おのれの「狂気」を直視して内から出発することとは、「自分の外」よりも先に「自分の内」を省みることです。というのも、先に「自分の外」を視てしまうと、「客観的」に自分を視ることになるからです。

 以上の論理の違いを踏まえると、次のように言うことができます。すなわち、ゴッホの「意識」というよりも、むしろ“直観による内省”が、「狂気性」を「創造性」にまで高めたのだ、と(拙稿「『直観』について」『先導者たち』を参照ください)。

 ともあれ、小林の指摘は、筆者の仮説を検証する上で、極めて重要です。筆者の仮説とは、「絶望」を「真実」に変えうるというものでした。

 すでに確認した通り、小林は、「狂気性」が「創造性」と関連していることを認めています。管見の限り、小林の指摘において重要な点は、おのれの「狂気」を直視したことこそが、ゴッホが「創造」を成し遂げえた最大の要因である、と論じた点にあります。

 したがって、精神疾患を罹患した筆者は、ゴッホの「絶望」と「真実」を参考にして、次のように問うことができます。すなわち、「創造性」の源泉が「狂気」(精神疾患)にあるのだとすれば、おのれの「狂気」を直視して、精神疾患の原因や意味を見出すべきではないか、と。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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