入院の教訓
前回は、小林秀雄の議論に基づいて、精神医学や心理学のような「合理的説明」は、ゴッホが「狂気」を「創造性」にまで高めえた本質的理由にはならない、と論じました。今回は、病気に対する態度を自分で決することや、病気の意味を自分で見い出すということが、“自分と戦う”ことであることを論じます。
さて、ゴッホは、「双極性障害」であったと言われています。ただ、小林によれば、「争う事の出来ぬのは、彼が、自分の病気を、はっきり知っていた病人だった、鋭敏な精神科医の様に、常に、自身の病気の徴候を観察していた病人だった、という事です」(小林秀雄『小林秀雄全作品22 近代絵画』新潮社、2004年、295頁)。
以下で検証するように、ゴッホが己の「狂気」を直視することになった契機は、精神病院への入院でした。その経験を通じて理解したことについて、小林の説明とゴッホの手紙を見てみましょう。
「サン・レミイ精神病院で、ゴッホは沢山の狂人達を観察する。〔中略〕新患者が入院する。夜昼を分たず絶叫して暴れるので、浴室に監禁される。ゴッホは或る日、われに還る。喉が腫れ上って四日も食事が出来ない。自分も亦新患者の様に絶叫していた事を知る」(同上、90、299頁)。
「又、僕〔ゴッホ――中西〕の症状の事になるが、もう一つ有難い事がある。患者達の話を綜合して察知したのだが、彼等にも亦僕の様に、発作時には、いろいろな音や人声などが聞え、見る物も変って来るのだ。そうと知ると、最初の発作以来僕を摑んで離さなかった恐怖が薄らいだ。〔中略〕僕は本気で考えるのだが、そういう事は一体何んであるかを一たん知れば、発作の試煉を受けているのだというその条件を一たん自覚すれば、苦痛や恐怖に狼狽しないよう、何んとか身を持する事が出来ると思うのだ」〔ルビ――試煉(しれん)〕(小林秀雄『小林秀雄全作品20 ゴッホの手紙』新潮社、2004年、140頁)。
ゴッホの決意表明
次に、ゴッホが「狂気」を直視して、精神疾患の意味を見い出そうとした方法について、具体的に検討していきましょう。
まず、ゴッホは、次のように述べています。「町の人々から自分の健康の事を訊ねられると、いつもこう言ってやる。君達の手にかかって、一ったん死んでから出直すのだ、そうすれば、僕の病気は死ぬであろう、とね」(小林、前掲『小林秀雄全作品22』、89、297頁)。
小林は、この記述を次のように解釈しています。「狂気の時の自我も正気に還った自我も同じ自我である、という奇怪な経験に堪えて行くのが、唯一つ残された生きて行く道だとするなら、なるほど、彼の言う様に、これは一たん死んでから、出直す道ではありませんか。彼のうちには、傍観者の住む余地はないし、普通の意味での自己反省も彼には何んの役にも立たぬ。病気が治るに越した事はない。だが、それは極めてあやしい事だし、医者の問題に過ぎない。彼の切迫した実感から言えば、問題は、寧ろ、真剣に病気になる事だと言うのです」(同上、297-8頁)。
また、ゴッホは、次のように書いています。「僕は、自分に振られた狂人の役を、素直に受け容れようと思っている。丁度、ドガが公証人の役を演じた様に」(同上、88、298頁)。
小林によれば、「狂人の役を演ずるとは、演じ終れば、恢復期の病人の役を演ずると言う事だ。〔中略〕正気と狂気との交替という強迫に耐える生存の全的な意識が、彼には必要だったのである」(同上、90頁)。
「彼〔ゴッホ――中西〕の言葉を借りれば『はっきりとは言い難い漠然とした一種の悲しさの底流』が身内を流れるのである。これはもはや医者の関知すべきものではない。病気は医者に任そう、だが、今後正気と狂気との交替に堪えて行かねばならぬ生活自体を誰に任すか。実生活の上で、時として狂人という奇怪な役を演じねばならぬ俳優は、己れの運命に関し、どんな意識を持ったらいいか。彼は、医者の忠告を肯定し、これに服従しながらも、一方、自分の狂気というものの、少くとも自分にだけは納得出来る人生観上の意味を見出そうと苦しむのである」(小林、前掲『小林秀雄全作品20』、128頁)。
「狂気」を直視する
要するに、ゴッホは、今自分が狂っていないかどうかについて、意識で観察しようとしていたのです。これが、“自分と戦う”という姿勢です。
小林によれば、「妄想の襲来」に「直面して、たじろぐ事なく、彼の言う様に、これを直視するより他はない。彼は、絵の仕事を、狂気に対する避雷針と呼んでいますが、避雷針は、狂気に対して、最も近い、最も鋭敏な、彼の意識の尖端を意味する筈です」(小林、前掲『小林秀雄全作品22』、302頁)。
ゴッホいわく、「愚痴を言わずに、苦しむ事を学び、病苦を厭わず、これを直視する事を学ぶのは、眼もくらむばかりの危険を冒すのと全く同じ事である」(同上、299頁)。
小林が言うように、「どうして、これを、単に冷静な判断とか客観的な考えとかと呼べましょうか」(同上)。したがって、己の「狂気」を直視するとは、先に「自分の内」を省みることだ、と言えるのです。この「仮借のない自己批判」は、客観的に行われていなかったのです。
「彼が遺した十九歳の時から三十七歳で死ぬまで、間断なくつづいている、執拗を極めた自己分析の記録は、現代の心理学的風潮とは、まるで逆なのです。分析出来る様な自我は、ことごとに棄てられるのです。どうしても外部化出来ない精神に行きつく為に、惜しげもなく棄てられる道を強行しているのです」(同上、305頁)。
「意識と心とは別物である、人間、めいめいが暗い危険な無意識を持っている、そんな知識だけで、どうして、私達は、実際に、自分達の内的経験を豊かに出来ましょうか、自己意識を磨ぎ澄ますという様な事が出来ましょうか。いや、知識は逆の作用をするのです。現にしているのです。無意識過程の合理的説明に耳を傾ける人間が、自分の心との戦という様な古風なやり方を放棄して了うのは当然でしょう」(同上、304頁)。
いずれにしても、前回検討したように小林は、ゴッホがアルルに移住した後に悪化した精神疾患の症状が、創造的行為につながったと言います。それでは、何が「狂気」を創造的たらしめたのか。それは、自分の「狂気」を直視したこと、なのです。