他殺説への違和感
本シリーズの目的は、画家・ゴッホの手紙に関する、評論家・小林秀雄の考察を取り上げることによって、「狂気」を「創造性」にまで高めうるという仮説について検証することです。この初回記事では、ゴッホとその手紙を検討対象とする理由を説明します。
ところで、『永遠の門 ゴッホの見た未来』(At Eternity’s Gate)という映画が、2019年に日本で公開されました。それは、精神疾患と闘いながらも創作活動を続けた、ゴッホの人生を描いたものです。筆者は、精神病院から退院した後に、リハビリを兼ねて、しばしば母と美術館や映画館に出掛けていましたが、この映画も鑑賞してきました。
たしかに、この映画は、精神疾患と創作活動の関連性という観点において、非常に興味深いものでした。たとえば、絵画の制作と同時並行して、ゴーギャンとの共同生活の破綻や、精神病院への入院などの事実があった点が指摘されています。
けれども、率直に言えば、映画の中に一点、筆者にはどうしても事実とは思えない点がありました。筆者は、ゴッホの人生が他殺によって幕を下ろされたとする考えに対して、違和感を覚えたのです。この映画では、“気が狂っていた”ゴッホを嫌っていたであろう住民(少年)によって、ゴッホが殺されてしまうという結末になっています。
従来、ゴッホは自らピストルの引き金を引いたと言われてきました。筆者が映画の結末に違和感を覚えた理由は、ゴッホの“最期の手紙”にあります。精神疾患と創造性の関連について考える上で、ゴッホの遺骸のポケットに入っていた手紙は、きわめて重要です。というのも、ゴッホは、絵画の制作に取り組みながら、精神を病んでしまっていたことを“自覚”していたからです。
「そうだ、自分の仕事のために僕は、命を投げ出し、理性を半ば失ってしまい――そうだ――」(J.v.ゴッホ-ボンゲル編『ゴッホの手紙(下)』岩波書店、1970年、283頁)。
手紙の意義
ちなみに、ゴッホの手紙の大半は、画商であった自分の弟に向けられたものです。悲しいかな、真偽はともかくとして、ゴッホの存命中、ゴッホの「作品は数フランの値ですら一枚の画布も売れなかった」、と言われています(エミル・ベルナール編『ゴッホの手紙(上)』岩波書店、1955年、10頁)。そのため、ゴッホの手紙には、弟に資金面の援助を願い出るという内容のものが、数多くあります。
また、ゴッホは手紙の中で、自身の絵画論や作品の制作意図について、詳細に説明しています。ただ、小林秀雄がなぜゴッホの手紙を「告白文学の傑作」として高く評価するのかと言えば、より本質的な理由があるからです。
「彼は、人々とともに感じ、ともに考えようと努める、まさに其のところに、彼自身を現して了うのである。ゴッホの手紙が、独立した告白文学と考えても差支えない様な趣を呈しているのも、そういう性質による」〔ルビ――其(そ)、了(しま)、差支(さしつか)〕(小林秀雄『小林秀雄全作品22 近代絵画』新潮社、2004年、88頁)。
小林によれば、ゴッホの手紙は、「近代に於ける告白文学の無数の駄作に対して、こんな風に断言している様に思われる、いつも自分自身であるとは、自分自身を日に新たにしようとする間断のない倫理的意志の結果であり、告白とは、そういう内的作業の殆ど動機そのものの表現」なのだ、と(小林秀雄『小林秀雄全作品20 ゴッホの手紙』新潮社、2004年、17頁)。
だとすれば、小林が述べるように、かくの如きゴッホの手紙を読むことなしに、彼の作品を理解することなど、到底できないのです。
「ゴッホという人間を知る上に、彼の書簡集が、大変重要なのは、単にそれが彼の絵の解説であるが為ではない。書簡と絵とが、同じ人間のうちで横切り合うからだ。書簡の現すところは、絵を超え、絵の現すところは書簡を超えて進むからである」(小林、前掲『小林秀雄全作品22』、92-93頁)。
次回は、以上のような意義を有するゴッホの手紙を手がかりとして、ゴッホの「絶望」と「真実」について検討する意義を明らかにします。