自ら「主体性」の意義を否定してしまう
前回は、「現実主義者」である高坂正堯の論文を検討して、「戦後平和主義者」である吉野源三郎の問題点を明らかにしました。シリーズ最終回の今回は、「戦後平和主義」という社会科学的認識の問題点を踏まえて、個人のモラルに関わる問題について再検討します。
さて、吉野は、自身の活動を振り返りながら、次のように述べています。「われわれの主張が具体的な政治のうえでどれだけ実ったか、たしかに問題になります。むしろ、現実には、敗北の連続だったと言えます。このことは、私たちとしては確認しておかなければいけないことでしょうね。雑誌としてどれほど反響を呼び起こそうとも、これはやはり残念なことで、その残念さを忘れて自画自讃するわけにはいかない」(吉野源三郎『人間を信じる』岩波書店、2011年、254-255頁)。
それでは、「戦後平和主義」の「敗北」の原因とは、本当に、「現実主義者」による指摘の通りなのでしょうか。
吉野と丸山に対する高坂の批判とは、すぐに「絶対平和」に到達することはできず、「権力政治」に対する理解が不十分だという点です。この批判を踏まえると、「理性的」な個人の倫理観が万人に行き渡るという、「戦後平和主義」の想定は、楽観的に過ぎたということになります。
吉野の議論の前提には「性善説」があるため、「現実主義者」による「戦後平和主義」批判は核心をついています。ただ、それ以上に、すでに検討しましたが、「性善説」故に、吉野の議論は致命的な問題を抱えてしまいました。その問題とは、「権力政治」に対する無理解もさることながら、彼自身が重視する「主体性」の意義を否定してしまっているということです。
「安保改定」について
以上の問題について、「安保改定」を例として考えてみたいと思います。吉野が述べているように、「結果は敗北でした。また、非武装の主張について見れば、自衛隊はすでに強力な軍隊として成長している。基地の全面的撤廃も実現されていない」(同上、254頁)。
「改定の謳い文句」は、「改定によって、日本が自主的な立場に立ち、また日米間の義務を片務的なものから双務的なものにするという、いわば『改善』」でした。そのため、「日本としての自立性の回復が必要だという議論が逆に改定の論理に取り込まれて」しまったことになります(同上、273頁)。
より詳しく、安保条約について説明します。1951年に締結された旧安保条約は、日本が基地を提供する義務を負う一方で、米軍の対日防衛義務は明記されていないという点において、「片務的」な内容でした。他方で、1960年の新安保条約では、米軍の対日防衛義務が明記されて、形式上日米安保は「双務的」になりました。
たしかに、「戦後平和主義」の主張には、一定の効果がありました。なぜなら、反核・反基地・反米闘争が米国をして、死活的に重要な基地特権を死守するべく、「双務性」を認めさせたからです。しかし、「戦後平和主義」には、盲点もありました。なぜなら、反核・反基地・反米闘争は、米国をして、日本本土を避けて沖縄に、核兵器の配備を進めさせたからです。
この沖縄の核兵器を、「極東の安全」のために使用する態勢を整えるべく、米国と日本の両政府は、沖縄を安保条約の“外”に置くことに合意しました。つまり、日本本土に適用された「事前協議」制度は、沖縄には適用されなかったのです。
沖縄の駐留米軍が日本政府の承認なしに出撃するという事態を許すことになってしまうのであれば、「戦後平和主義」は、この事態を阻止するために発言し行動するべきでした。ところが、保守派だけでなく、野党でさえも、沖縄を第5条の「条約地域」に含むことによって、日本本土が紛争に「巻き込まれる」ことを恐れたのです(松岡哲平『沖縄と核』新潮社、2019年、228-230頁)。
「極東における緊張緩和」に向かうステップとして、まずは、沖縄に配備されている核兵器やそれを運用する米軍の活動を、「日本の安全」とより密接に関連づける(限定する)ことこそが、日本の「主体性」であったにもかかわらず、です(拙稿「『ビキニ事件』と安保改定――『核の傘』の論理の形成」『年報 日本現代史』第19号、2014年5月)。
「真実」をつかむために
要するに、「戦後平和主義」の問題点とは、日本の「主体性」に関わる「沖縄問題」について、「安保改定」で保守派を建設的に批判することができなかったことです。以上、「戦後平和主義」を批判的に検討してきましたが、この社会科学的認識の問題点を踏まえて、改めて個人のモラルに関わる問題について検討してみましょう。
吉野に関して言えば、社会科学的認識の問題点は、個人のモラルに関わる問題点と合致しています。実際、「主体性」の価値を自ら否定してしまうという点こそが、吉野の小説の構造的問題でした。すなわち、人間を信じるという賭けが、謝罪の手紙を出すという「主体性」の意義を否定してしまっていたのです。
この点を踏まえて、「絶望」を「真実」に変える方法について、最後に考えてみましょう。というのも、これまで批判してきたように、吉野の方法とは、「自分で自分を決定する力」を内省することでしたが、その前提に「性善説」があるため、普遍的に妥当しえないということが明白になったからです。
過去の失敗から未来への教訓を得るべく、具体的に、コペル君はどうするべきだったのかという問題について考えてみましょう。考える手がかりになるのは、「現実主義者」の高坂正堯が目指していた「極東における緊張緩和」です。つまり、「友」と「敵」という認識枠組みを越えうる、大きな意味での「主体性」を目指すべきではないでしょうか。
吉野は、「友情」の美しさを強調するので、窮地にある友だちのもとにコペル君が駆け寄ることを“理想”(あるべき姿)としています。この文脈において、彼が駆け寄ることができなかったことを、自ら手紙で謝罪するべきだということになるのです。しかし、仮に非力なコペル君が駆け寄ったところで、「暴力」の行使を阻止することができない以上、敵対関係を変えることはできません。
「暴力」が行使されて敵対関係が決定的になる前に、コペル君は、何をするべきだったのでしょうか。「まわりに立っていた見物の生徒たち」の存在を思い出すべきです(吉野源三郎『君たちはどう生きるか』マガジンハウス、2017年、219頁)。全世界が友だちになるという未来を見据えるならば、彼らを動員して、「暴力」の行使を阻止するという方向で、「主体性」を発揮するべきではなかったでしょうか。言い換えると、「世論」を味方につけるという方法です。
ちなみに、コペル君は、浦川君が同級生の山口君にいじめられていたときも、北見君とは違って、傍観していました。いじめっ子に「力」で対抗しようとする北見君を、いじめられた浦川君がとめたため、吉野は、その「寛大な、やさしい心」を称賛していますが、次の点がより重要です。すなわち、「浦川君のような立場にいながら、少しもひるまずに山口君たちをおさえてゆけるなら、その人は英雄といっていい」(以上、同上、64-65頁)。
ともあれ、「絶望」を「真実」に変えるためには、自分の「力」の限界を冷静に見極めながら、「主体性」の意義を見失うことなく、“理想”(目標、本当の自分)を再検討する。これこそが、筆者個人のモラルに関わる問題なのです。