精神疾患の罹患によって経験した強制入院は、いっそうの精神的な苦痛を味あわせるものでした。たしかに、他の患者さんとの出会いや「認知行動療法」は、新たな発見でした。しかし、それ以上に、常に監視下に置かれて、何をするにも病院側の許可がいる状態は、筆者をして、まるで「監獄」にいるかのような気分にさせました。
退院後も、思考がうまく働かずに日常生活を送ることにも苦労するため、学術的な探究ははかどりませんでした。悪いときは、一日中床に臥せっている状態でした。大学院や学会報告などで自由に考えることに生きがいを感じていた筆者にとって、幻聴や抑うつ、そして「思考障害」といった症状は、筆者に“絶望”を感じさせるものでした。
それ以前にも、近親者の不幸を経験したことはありました。けれども、以上のような症状を抱えた時ほど、筆者が自分自身に「死」が近づいていることを、切迫したものとして認識したことはありませんでした。そして、いざ自分がそのような危機に直面すると、先が見えずに、もがき苦しむだけでした。
もちろん、筆者にとって幸いであったことは、苦境に陥っても見捨てないでいてくれた家族がいたことです。家族の助けに支えられながら、これまで自分が「絶望」についていかに考えてこなかったのかに気づき始めたのです。それでも、「絶望」的状況から光を見い出して、自分の足で立って生きていくことができるかどうかは、結局当事者次第なのです。
実は、筆者は強制入院に前後して、次のことを学習していました。それは、作家や文芸評論家が、「絶望」の意義について指摘していることです。その人物とは、三島由紀夫と福田恆存です。別稿にて本格的に取り上げることを検討しているため、今回は一部のみの紹介となりますが、この2人は、次のように述べています。
三島によれば、「一番おそろしい崖っぷちへ連れていってくれて、そこで置きざりにしてくれるのが『よい文学』である」(三島由紀夫『若きサムライのために』文藝春秋、1996年、90-91頁)。また、福田によれば、「すべて精神的な問題の場合は、〔中略〕克服などという安易な道はありえないと悟らざるをえないほどの絶望的な混乱を痛感することから出直さねばなりません」(福田恆存『人間の生き方、ものの考え方』文藝春秋、2015年、103頁)。
何が言いたいのかというと、筆者は、作家や文芸評論家の書籍を読み、それに加えて、自分で“絶望”を実際に経験することになったということです。そこで、主に文学作品や文芸評論を題材として、「絶望が持ちうる意味とは何か」という問いについて検討したいと考えるに至りました。