4、5年前からだろうか、しめ縄を自分で作るようになった。10年以上前に、おじから教えてもらったのだが、かなり自己流になってしまっている。
わらの結い方は、宗派によって異なるようだし、とりあえず、何とか形になればいいかくらいの感覚で、教えてもらったことを思い出しながら、やり始めた。
昨年末も、作ったのだが、いっこうに上達する気配はない。欲が出てきて、昨年よりも大きいものを作ろうとしているように思う。
道からは見えにくい角度に、我が家は正面玄関があるので、誰からも見られることはない、自作のしめ縄。
神様に捧げるためのもので、私の祈りがそこに現れていれば、それで事足りるのだ。そのように、思うようにしている。
今時、自作するのは、珍しいのかもしれない。スーパーや100円ショップでも、しめ縄は見かけたことがある。
もちろん、両親が喜んでくれていれば、私も嬉しいのだが、別に誰かのために作っているのではない。
あれを作るのにかかった時間は、測定しようと思えば、できる。年々、短くなってきている。しかし、それを作ろうと思ったワケは、自分でも説明することができない。たどたどしくなる。
私が信じているもの、秘めているもの、心の中の叫びは、しめ縄では表現できないのかもしれない。暇人、物好き扱いされているだけなのかもしれない。
いくら物まねをしようが、他人から欲しがられるような、しめ縄は作れそうもない。
他人のことを想って作ったのだと言っても、他の作品よりも優れている証拠は示せない。上手で安いしめ縄の方が、商品価値は高いに決まっている。
高い技術やデザイン、あるいは、ビジネス的な効率性。それがないような作品は、自己消費で終わるだけ。資格を取得して、ブランド化しないとだめよ。批判されている声が、今も聞こえてくる。
「どうして誰もわかってくれないのだろうか」と嘆くだけで、人生を終える気などない。
別に、文体や表現技法などいらないと言っているわけではない。読んでいても、「芸術」のすごみとは何かが伝わってくるような作品が、ほとんどなかった。
今ようやく、地に足をつけている段階なのに、こんなことを考えている。
どうやって世俗から脱却するか、生き永らえながら、そんなことが果たして可能なのか。