思い出を抱いて

他の人からは思い違いとか、誤解だと言われてしまいそうだが、私の記憶が寸分違わず現実であったかどうかなど、どうでもいいことなのではないかと思うようになった。

なぜなら、作品にまで高まったとき、私の心のわだかまりは解けたからだ。私の頭に絶えず浮かんできた「彼ら」に対して、憎しみどころか、感謝の気持ちさえ抱いたほどだ。

大学の学術論文が、最終的に博士論文としてまとめることができなかったなど、もはやどうでもよいくらいだ。何かを作品として仕上げようとする原動力は、「彼ら」から与えてもらったと言っても、過言ではない。

画家のゴッホは、死の前に、描いても描いても売れない作品をつくる理由について、自問自答していた。誤解を恐れずに言えば、「悲しみが消えた」というような意義があったようだ。

大学院を出て、社会で少しずつ仕事をする頃には、家庭を築いている同級生もいた。その中の一人に、中学生時代から付き合って結婚した人もいた。

下品な言い方になるが、私はそういう人とは全く違って、あの中学時代の思い出と寝たのだ。

かつての呪縛から解き放たれて、今、新たな物語を編もうとしている。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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